いじめられキャラ
こんにちは。今週の土日は、雨が降りそうですね。
お出かけの際はお気をつけて☂
タイトルから何となく分かっている方もいるかも知れませんが、
今回は「いじられキャラ」について…ではなく!
「笑ってやってるからって良い気になりやがって」
「そのいじり全然面白くないんだけど…」
「そのいじりは流石にやりすぎ…でも、皆笑ってるし怒りにくい。。。」
皆さんはこんな思いになった事はいないでしょうか?
「いじめられキャラ」という事で、過度にいじりを受けていると感じている方に
向けて記事を書いていこうと思います。
目次
1.「いじられキャラ」ではなく、
「いじめられキャラ」だった自分
2.心の奥底に隠れた心理
-・嫌いな人間にも嫌われたくない。
・嫌いな相手でさえ、相手の事情や立場を考えて可哀想に 思い、助けてしまう。
3.一周回って「いじられキャラ」に定着しました
4まとめ
1.「いじられキャラ」ではなく、
「いじめられキャラ」だった自分
「笑ってやってるからって良い気になりやがって」
「そのいじり全然面白くないんだけど…」
「そのいじりは流石にやりすぎ…でも、皆笑ってるし怒りにくい。。。」
先程自分はこのように書きましたが、これは実は他の誰かの話ではなく
自分自身がずっと感じてきた思いでした。
簡単に自分の過去とその時に感じてきたことを書いていこうと思います。
自分がいじられキャラになり始めたのは、中学生頃からでした。
最初は自分がいじられキャラだということは特に意識しておらず、
何かからかわれたりすると、持ち前の明るさを持って面白い風に
返すように努めていました。それも自分の中に特に頑張っている感じや無理をしている感じはなく、相手を喜ばせることは自分にとっての喜びでもありました。何か自分がオーバーにリアクションしたり、面白い風に返したりするといじってきた相手も笑ってくれてそれが嬉しかったです。
元々の自分の性格もいじられやすかったかもしれません。
不器用で何をやってもカッコがつかず、陽気な性格や、限界に達するまであまり怒らないなど、
あまり人に警戒心を持たれにくく取っつきやすい性格でした。
ですが、そのようないじりもいつしか行き過ぎるようになりました。
特に中学生3年生ごろがもっとも酷かったです。
特に印象的な出来事が幾つかあります。
中学生時代自分はサッカー部だったのですが、練習の休み時間のことです。
暑い時期だったので、水道でたむろしお互いに水を掛け合いながら遊んでいました。
そのうちエスカレートしていき、部員の一人が水を口に含んで、人に向かって吐き出す真似をし始めたのです。真似だけで済めばよかったのですが、ついに自分はその標的にされて、
驚くことにその口に含んだ水を顔面に吐きかけられたのです。
信じられなくて、あまりに驚きで、怒る気にもなれなかったのを覚えています。
少しして我に返り張本人に対し、怒ろうとするのですが相手は悪びれる気配が全くありませんでした。
また他にも、普段自分があまりにもいじられていることに対し
我慢しきれなくなって思い切り怒ったことがありました。
その時は、複数人にいじられていたので周囲にいた2人に膝蹴りと普通の蹴りをお見舞いしました。そしてこのように言いました。
「どいつもこいつも調子に乗んな! ずっと我慢してきたんだよ!」
口調や行動から当時の自分がどれほど頭にきていたか想像ができると思います。
怒った自分に対し、一時期は相手も態度を沈めましたがそれも長続きはせず、
しばらくすると、かえって信じられないような暴挙に出るようになりました。
自分が怒ったセリフそのままを使って替え歌を作ってきたのです。
当時はこんなゴミがどうして生きているのか? よく恥ずかしいとも思わずに平気で生きていられるのか? ととにかく疑問に思いました。
そんな思いがありながらも、
自分は「ふざけんなよ~♪」と怒るふりをしていました。
今挙げた2つ以外の事においても同じで、いじられる度におどけるふりをしていました。
また、何かお願い事や当人たちが困っている様子を見ると、その事情を汲んで可哀想に思い助けてしまうのです。ですが、それによって関係が変わることはなく、その一時は感謝されることはあっても、その後すぐにいじられるようになります。
これが当時の自分にとって深い悩みでした。自分としては思い切り復讐をしてやりたかったのです。
助けてしまう度に
「何故自分はあんなクズに媚を売ってしまうんだ。この意気地無しめ!」
「心置きなく何の躊躇もなく彼らを痛めつけ、救いの手も払いのけられたらどんなにいいだろう」
そのように思っていました。
2.心の奥底に隠れた心理
いかがでしたでしょうか?
これが中学生当時の自分が受けていた扱いと、その時の感情です。
当時の自分は正義感の強い性格でもあったため、怒りを爆発させることが出来たときも
ありましたが、読者の皆様のなかには怒れずにいる方やいつの間にか「あれっ、もしかして私って今いじめられてる?」と思ったことがある人もいるかもしれません。
当時の自分は「何故あんな奴らをどうして切って捨てられないのか?」
「どうして、可哀想に思い助けてしまうのか?」
「どうして、こんなに嫌いなやつなのに嫌われたくなくておどけてしまうのか? 怒っていないふりをしてしまうのか?」
とにかく疑問でしたし、そんな自分が大嫌いで意気地がないと責めていました。
他人も自分も自分の事を責めている状況で立つ瀬がありませんでした。
・嫌いな人間にも嫌われたくない。
本当に心から殺してやりたいと思っているほど憎らしい相手で、直前までその相手に対する
恨み考えていたのに、急に話掛けられた途端愛想笑いをしてしまうのか? 怒っているのか? と聞かれて、怒っていないよ と言ってしまうのか、当時の自分は不思議で仕方がありませんでした。
今振り返ってみると、嫌われたくないというのは、好かれたいということの裏返しであり、
好かれたいというのは、自分の中で満たされない思いがあるということなのかなと
思っています。自分で自分の事を肯定してあげることが出来ず、他人からの評価で自分の価値を補っていたのだと思います。嫌いな人間からさえも好かれたいほど、満たされない思いが高じていたのだと思います。
・嫌いな相手でさえ、相手の事情や立場を考えて可哀想に思い、助けてしまう。
「 こんな人間のクズ今すぐ切って捨てろ」「こんな奴放っておけばいいじゃないか」
そんな風に思いながらも、いざとなると助けてしまいます。
「助けたからといって相手がいじめの手を緩めてくれるわけじゃないのに。むしろ、助けたのにも関わらずそれをからかわれる」
良いことの筈なのに当時の自分はこんなにも人を見捨てられないことに対して心底悩んでいました。本気で人を見捨てられるマインドを手に入れる努力をしたこともあります。
何故自分は人を見捨てられないのか? これは、一人一人の心の中に神様がくれた消すことの出来ない良心というものがあるからだと私は思っています。
どんなに悪いように見える人間であったとしても、良心というのは必ずあります。
自分に対しては悪い人間に見えても他の人には優しいかもしれません。良心があるからこそ、こんな奴と思いながらも助けてしまうし、仮に無視や復讐が出来たとしても心からは喜ぶことが出来ないのだと思います。
もし読者の中に同じ悩みを抱える人がいるのであれば、
今は辛かったとしても自分の良心を誇ってもらいたいと心から願います。
自分の行いに対して相手がどう思い変わってくれるかを求めると、必ず辛くなってきます。相手はこちらの思う通りには変わってくれないので、自分の良心に従うことを目的とし、良心に従った自分の行動に対して喜びを感じてもらいたいです。
3.
さて、ここまで色々言ってきましたが結局今現在どうなっているのか?
………今は結局めちゃくちゃいじられています(笑)
もはや、そういう星の下に生まれたのだなと受け入れています。
一時期は漫画やアニメの影響で二枚目キャラに憧れていたこともあったのですが、
絶対に自分はそんな人間にはなれないことがわかりました(笑)
ですが、変わったことも幾つかあります。
まずは、受け止め方です。環境はあまり変わっていませんし、むしろ以前よりいじられているようにすら感じますが、今はいじられていても感謝出来るようになりましし、一緒に笑ってあげることが出来るようになりました。
「きっと今この人の中にも満たされない思いがあるのだな」
と思って、親のような気持ちで見てみると相手が可愛らしく見えてきます。
「この人は本当は自分の喜ぶ顔が見たいんだな。自分が喜びたいだけなんだな。今はただ表現が苦手で、自分でもどうしていいか分からず偶々言葉の暴力という形で現れているだけなんだ」
このように思えるようにもなりました。
やはり、自分がこのように変われたのには信仰の力があったように思います。
信仰を持つようになって神様の愛を実感し、その自分を愛してくれている神様が人類全員を愛してくださっているのだと思い、神様の目線で自分をいじめていた人たちを見るように務めました。もちろん信仰を持ち始めたときには中学生時代の級友たちは共にいなかったので、記憶の中で振り返っていただけですが、許せない思いが解かれていったのを覚えています。
4.まとめ
いかがでしたでしょうか?
ここまで読んでいただいて少しでも読者の皆様の共感を得られていたら幸いです。
さて、今回の内容を纏めていきます。
・何故自分をいじってくる人間にもいい顔をしてしまうのか?
それは、自分で自分を肯定してあげることが出来ず、嫌いな人間からでさえ評価されることを望んでしまっていること。だからこそ、自分で自分のことを認めてあげてほしいです
・何故嫌いな人間でさえ助けてしまうのか?
それは、人の中に良心があるからに他なりません。
助けた自分を安売りせず、相手の行動を変えることを目標とせず、良心に従えたことを誇り喜んでもらいたいです。