こころのブログ

今までの失敗&成功体験をもとに、「悩んでいる人の気持に寄り添いたい!」がテーマのブログです

父のような人間にだけはなりたくない

こんにちは。「こころの」です。

最近朝部屋に日差しが入るようになり、秋の訪れを近くに感じています。

 

さて、今回は自分が子供の頃「父のような人間にだけはなりたくない」

と思いながら過ごしていたときのことを書いていきたいと思います。

そういった思いも今では、かえって「将来は父のような男になりたい」

という思いにまで変わっています。

 

 

「自分のなかにもそういう思いがある」

「こころがスッキリした」

「少し関係を修復していく糸口になった」

そう思って頂けるように努めてまいります。


本文↓↓↓

 

自分は昔、中学生頃から社会人になるまで「父親のような人間にだけはなりたくない」

そのように思いながら過ごしてきました。特に尊敬する人物がいたり、目標とするものがあったわけではないのですが、とにかく父のようにだけはなりたくないと思っていました。

 

父との関係は元々それほど悪かったわけではありませんでした。

ただ、付き合いが希薄で互いに家にいても1週間一言も口を利かないこともざらにあり、

互いに無関心な部分がありました。

勉強をしていなくても何も言われない、何時に帰ろうが何も言われない、

同じ食卓についても自分はテレビを、父はポータブルテレビを見ている有様でした。

 

父の性格を箇条書きにするとこんな感じです。

・とにかく真面目できっちりした人でした。だらしないところがあまり見つからない人でした。

・毎日必ず4時半には起床してランニングをし、朝食を食べて新聞を読み、必ず7時ちょうどに出勤します。会社に遅刻しているところなど見たことがありませんでした。

・夜は息抜きに1缶だけビ発泡酒を飲みます。それ以上は絶対飲みません。

・土日には趣味の読書と山登りに勤しみます。1日中寝ているだとか、寝間着、パンツで過ごすということはありませんでした。

・今の勤務先には大学卒業後ずっと努めており、また母以外での女性の影も全くありません。

 

 

このように実際に書いてみると、実に立派な人です。

読者の方も特に目立った弱点や欠点というのは見つけられなかったのではないかと思います。

 

ですが、当時の自分は父に対してこう思っていたのです。

「そんな生き方していて何が楽しいの?」「自分はそんな人生送りたくない」

親の立場に立てない若気の至りであったかもしれませんが、

当時の自分は本気でそのように思っていたのです。

 

当時は父に対して強く悩んでいたわけではなく関係を修復したいという欲求も特にありませんでした。状況が変わり始めたのは父に対し信仰告白(信仰を持っていることを周囲の人に明かすこと)をしていこうとなってからでした。人によっては宗教に対する偏見がありますし、また親も子供が信仰を持つようになれば少なからず心配をするので、特に親に対し信仰を明かしていく伝統があります。

父に信仰告白をしていくに当たって、自分と父との関係を何度も見つめ直し、

自分の心の奥底は何を思っているのか、父は当時どんな事情があり、何を思い、自分をどのように見つめていたのかを考えました。

 

そんな中で思いがけない自分の気持ちに気づいていきました。

 

自分は父に対し、劣等感を感じていたのです。

 

学生時代は特にそうだったのですが、自分は何をするにも継続力がなく、

何をしても最後まで達成することが出来ず、そんな自分に心底うんざりしていました。

また、元々好奇心旺盛な性格なのもあり様々なことに興味を持っては手を出し、

続けられなくてまた落ち込むことの繰り返しでした。

それと比べて父は初志貫徹、何事も継続できる父です。

父から継続できないことに何か言及をされたことはありませんでしたが、

父と比べて意志の弱い自分、父と比べて勉強の出来ない自分、何をしてもだらしない自分。

誰に責められるでもなく、自分で自分を責めていました。あまりにも父に似ていなくてもしかすると自分は養子なんじゃないか、と本気で考えたほどです。

 

 

加えて、自分は父に怒られたことが一度もないことや、父も寡黙で口下手な性格も相まって

あまり関心を持たれていないのではないか、そんな寂しさが心のうちに蓄積されていたのです。

 

その気持ちを覆い隠すように、反発心を強め「父のような人間にはなりたくない」そのように思うようになってしまったのです。

 

自分と同じでなくとも、誰でも誰かに対して反発するような思いになることがあると思います。

そんな時皆さんはどのように考えるでしょうか?

「あの人のあの行動が気に食わない。常識的に考えてありえない」

「どう考えてもあの人のあの行動は許されるものではない。自分だけでなく皆も困っている」

自分であればこのように考えます。何とかして自分の正当性を保とうとします。

皆さんにも少なからず当てはまる気持ちがあるのではないかと思います。

「いや、そんなことはない」と思って、反例を無意識に考えていたとしたら、それは当てはまっている証拠かもしれません。

 

そのような不快な思いになった時、是非このように考えてほしいです。

「何故あの人の行動に自分は腹を立ててしまうのか?」

 

 

信仰告白の準備のため、父との関係を見直している期間私は、「神様が愛される父の性質を毎日3つ書き出し」ました。自分の目線からは何も出てこないので、一歩引いて自分の嫌いな父を神様であればどのように愛していらっしゃるのか? そのように考えるようにしました。

 

続けていくと、実に不思議なことが起きてきました。

それは、自分が愛されていたということに気づいたのです。

 

父は自分に対し、「あまり干渉してこなかったけれど、そのおかげで自分は色んな経験をさせてもらえた」「干渉しないのも本当は勇気のいる行動だったのではないか」「 自分に使うお金を惜しんでわたしの大学の費用を私が生まれたときからコツコツと貯めてくれていた」

たくさんの愛情に気づきくことが出来ました。

 

父への反発心から、自分が父の愛情に気づいていても気づかないふりをしていた事を知りました。また父の当時の事情にも意識が及ぶようにもなり、父に対し許せない思いが和らいだのです。

 

実際に信仰告白をしてみると、父は否定することなく受け止めてくれました。

また、自分の前で初めて泣き「お前は父さんより立派だ」と言ってくれました。

今では、父のように誠実で寛容さのある人間になりたいと思っています。

 

是非この記事を通して、自分の心の奥底を見つめるきっかけになれば嬉しいです。

「自分は何も出来ない奴だ」、と思っていた

こんにちは。皆のこころに寄り添いたい「こころの」です。

最近は台風が接近しているのもあり、涼しくなってきていますね♪

 

前回の自己紹介記事を除いて、今回本格的な投稿は初めてです!

書きたいネタはたくさんあるのですが、栄えある第一号何を書こうか迷いました。

「人の心に寄り添うこと」をテーマとしているので、基本的に自分の体験談を通して感じたこと、

また自分はどのようにそれを克服していったのかを書こうと思っています。

「自分は何も出来ないやつだ」

から

「自分は何も出来なくても良いやつだ」

「何も出来ないと思っていたけれど、こんな良いところがある」

に変わっていく一助になることを願います。

 

 

今回は、「自分は何も出来なやつだ」と思っていたことを書こうと思います。

 

 

それでは本文へ↓↓↓↓

自分は昔から「自分は何も出来ないやつだ」という思いが強い人間でした。

ですが、最初からそうだった訳ではありません。

小学生時代は怖いもの知らずで万能感に溢れていました。

というより、人と比べるということを知らなかったため、

テストで高い点数をとってもそれほど誇りもせず、

所属していたサッカークラブでも、時々褒められれば嬉しい程度で、

人を見下すことも、自分は何も出来ないと卑下することもありませんでした。

 

読者の方も小学生の頃から、「自分は何も出来ない」と思っていた方は少ないのではないでしょうか?

 

徐々に変わり始めたのは、中学生に入り始めてからです。この頃から自分と周囲との違いを認識し始めました。特に印象的に覚えているのは、一年一学期の中間テストです。中学生初めてのテストでした。結果は散々で、初めてテストの結果を人に見せたくないという思いになりました。それから、小学生の頃からの延長で入ったサッカー部でレギュラーメンバーから外され、美術の授業や体育、容姿など比較され馬鹿にされることが多くなり、次第に自分でも「何も出来ない自分」を攻めてしまうようになりました。

 

当時親友だと思っていた友人からこんな一言を言われたことがあります。

「お前俺に勝ってるもの一つもなくね?」

 

場所も時間帯も表情もつぶさに覚えています。

この時の自分は何も言い返すことが出来ませんでした。

 

それでも、学生のときはまだ良かったのです。問題は社会に出てからです。

自分は服や人と話すことが好きでもあったので、アパレル店員の仕事に最初着きました。

そこでも散々でした。話しかけるときもテンパって上手く話せず、周りが見えず何度もお客様と衝突したり、足を踏んでしまうということがありました。加えて一番衝撃的だったのは、

レジ作業を全く覚えられなかったことです。何度も練習し、忘れないようにレジ周囲の見えるところにメモ紙を貼り付けたりするも一向に出来るようにならないのです。流石にレジ作業が出来ないのは自分でも衝撃で、かなりショックだったのを覚えています。

 

当時の店長は本当に面倒見がよく、優しい方だったので、今でも慕っている方なのですが、その方にはこんな事を言われました。

 

「お前、何なら出来るんだよ」

それに対し自分は

「そうなんですよ。何も出来ないんですよ」

と笑いながら答えました。

 

その時自分がどんな気持ちだったのかは、言うまでもありませ。

ここまでの言葉を言われた事がある人は少ないかもしれませんが、

この記事を読んでいる方の中でも、人に馬鹿にされて傷ついたり、人と比べて落ちないかビクビクしていたりする人もいるのではないでしょうか?

 

皆さんはそんな気持ちが自分の中にある時にどのように対処してきましたか?

お酒や趣味で気晴らしをするのか? 自分に向いている職を探すのか?

そもそも向き合おうとすらしていない?

 

自分が周囲の人を見ていると、殆どの方がそういった傷ついた気持ちに対し間違った対処をしているのではないかと思うのです。もしくは、他人のせいにして原因を見つめれ地ないのではないかと思います。

 

そもそも何故「何も出来ないと駄目なのか?」と、考えたことはありますか?

何も出来ない自分を受け入れられたならどんなに心が楽だろうと思います。

本当に心の奥底で思っていることというのは、「何か出来るようになりたい」ということではなく、愛されたい気持ち」「満たされない思い」なのではないかと思うのです。

それを分からず、多くの人が人からの関心を得るためや、競争に負けてばかにされないように

「新しいスキルを取得しないと」「何か自分に向いた仕事はないか」と思ったりします。

それ自体は間違ったことではないですが、新しいスキルを手に入れて仕事に成功してどうしたいのか? 向いている職についたら全て悩みは解決するのか? 考えてみてほしいです。

誰も全ての競争に常に勝ち続けられる人なんていません。

一度自分の心の奥底はどんな気持ちを抱えているのか考えてみても良いのではないでしょうか?

 

自分は信仰を持つようになり、本当に多くの方に愛され尽くしていただき、

自分も人を愛していくことで、傷ついた心が癒やされていきました。

表面上を見れば何も変わっていません。相変わらず、絶望的に不器用で未だに多くの人に迷惑を掛けています。ですが、今では何も出来なかったとしても、誰に何の競争で勝てなくても「自分は愛されている」「自分には価値がある」と言えるまでになっています。

 

自分心の奥底を見つめることを通して、

本当に自分が思っていることは何なのか、本当に欲しいものは何のなのか?

是非考える一助になれば嬉しいです。

 

こころに寄り添う「こころの」です

こんにちは^_^ 始めまして。

皆さんの心の悩みに寄り添いたい「こころの」です。
私は横浜市在住の二十代男子で、
一点除いて平凡な男子です。

 

何が一点平凡でないかというと…

スピリチュアル、宗教的な事が嫌いな
宗教家なんです^_^

 

文無し&無償で働き続けていますが、
今は幸せに毎日を過ごす事ができています✨✨
自分でも、時々客観的に自分を見つめながら
「よくやるなぁ」と思ったりすることもあります笑


自分が伝道されたのは、
ちょうど二十歳の時で、その時はもう本当に終末というか、かなり酷い状態で、
「死」というのが、美しいことのように見え、
いかにしたら美しく死ねるか、いかにしたら美しく破滅できるかを考え、

挙句の果てに潰れてしまいそうなほど寂しいにもかかわらず、

自分が寂しいことにも気づけないでいました。人は愛されないと寂しいという感覚が分からないときがあります。

 

 

そんな当時の自分は心の中にあるモヤモヤがなんなのかその正体が分からず、

とにかくモヤモヤを解消しようと 酒、タバコ、風俗にどっぷりとハマっていました。

また、衝動買いも甚だしく、両親が自分の大学進学のために生まれたときから貯めてくれていた200万円も何の価値もないことに費やしました。何かこの辛さを解消するものはないかと四苦八苦しましたが、何をしても解消されません。

もう、とにかく当時の酷さを書き上げるときりがないですね(;´д`)トホホ…

この場で、したいのは不幸自慢ではなく私の自己紹介なので、詳しい内容は別の機会にします…

 

そんな自分の転機になったのが、今信仰している宗教との出会いです。

もちろん、最初から信仰し始めたのではなく、ただの興味本位でそこの教会に通っていました。

そこにいる人たちは異常なくらい優しく、むしろ怖いくらいでした。通う度に神様のことや

「教え」のことなど様々なことを教えてくださるのですが、疑り深い私は全く信じていませんでした。

そんな自分が何故通い続けたのか、信仰を持つまでに至ったのか…

 

それは、です。

 

最初は神様も「教え」も全く信じていませんでしたが、

長い期間変わらずに投入し続けてくださる中で、

自分の中である気持ちが芽生えるようになりました。

 

「嘘でもいいから、ついていきたい」

 

これが自分の転機です。

もちろん、信仰を持ち始めたからと言っていきなりスーパーマンになるわけではありません。

そこまで酷い状態だった私ですから、変わっていくために様々な苦労をしてきました。

 

でも、その苦労を通して成長し、

文無し&無償労働でも幸せに生活しています。

 

こんな生活は世間の常識とはかけ離れているので、

理解できない部分もあるかもしれませんが、

誰でも心のどこかで「そんな風に生きれたらな」「見返りを求めずに、誰かの為に生きられたらな」という思いがあるのではないでしょうか?

 

このブログでは、自分の体験談や「教え」を軸にしながら、今悩みを抱えている人に寄り添うこと、変わりたいと思っている人の手助けのために書いていこうと思っています。

 

是非、ご興味ある方はこれから御覧ください。